序章 『虚無の現世』 暗い路地裏の奥にある、一つの不気味なマンホール。 辺りには誰も居なく、不気味な静けさだけが漂っている。 私はそのマンホールの蓋をそっと横に動かすと、すかさずその隙間から蓋 の向こう側を覗いた。 蓋の隙間から垣間見た世界は仄に暗らかった。 (私は……) 過去の記憶を甦らせる。だが、決して思い出す事は無い。 名は、 (……ロスト) これは記憶ではない。最初から頭の中に組み込まれていた『情報』に過ぎ ないのだ。もっとも、私に頭などと言う名詞は持ち合わせてはいない。 では一体何なのか? ――今は唯、《世界》が人間社会の闇から造形した 『影』とでも言っておこうか。 私はマンホールの隙間から、流れる様に這い出た。 『影』である以上、そこに光りが在るのなら、物が無ければ私は存在でき ない。故に私は『幻影』を生み出す。これも言わば一種の『情報』である。 そうしろと『頭』が司令を出すのだ。まあ、物陰ならば、その様な心配事 は必要ないのだが。 蒼紫のローブに身を包むシンプルな影像(ビジョン)。年格好はそれなりに 若い少年の姿を想像(イメージ)し、表現したつもりだ。 私は取りあえずその姿で、人間社会に足を踏み込ませてみる事にした。 ――路地裏を過ぎればそこにはたくさんの人々がいた。 場所はどこかの都市の駅前通りらしい。夕方とあって、駅から出てきた人 や駅に向かう人達が忙しそうに往来している。 季節はおそらく、秋から冬へと変わりつつある頃だろう――行き来する 人々の姿はセーターやマフラーを身に着け、中には厚手のコートを着てい る人もいる。 そんな中、私は通りを渡りながら行き交う人々の表情を眺めていた。 陰気な薄暗い世の中、過ぎ去る人々。皆、何かしら不安と鬱屈な表情に滲 んでいる。 剰さえ暗鬱な浮世は、一縷の希望も与えようとしない。何と言う虚無と没 落の中に沈んでいるのだろう? 私はふと立ち止まり、心の中でそう感じて いた。 そして、ここにもそんな憐れな現世に浸る人間が一人……。 ――オレはこの日、霞ヶ崎駅の駅前通りの文房具店に部活に使うための大 判用紙とマジックペンを買いに来ていたのだが、そこで奇妙な若者を見た。 いや、『見た』のではなく『見えた』のかもしれない。そいつは幽霊の如 く、酷く霞んでいた。 今時、そうはお目にかかれない蒼紫色のローブの様なコートらしき物を着 こなした、一風変わった少年が道の真中を歩いていたのだ。 背丈はオレと同じくらい。或いは、それより少し高いと言ったところであ る。 そいつはゆっくりと歩きながら、迷子の様にあちこち辺りを忙しく窺って いる。 不思議な事に、周りの人々はそいつに全く気付かず、まるでオレは幻影か 蜃気楼といった類のものを見ている様な感覚だった。 そしてそいつは急に立ち止まり、こちらへ顔を向けた。どうやらオレの存 在に気が付いたらしい。 不意にオレは、そいつと目が合ってしまった。 どこまでも穏やかな眼。それがそいつへの第一印象だ。しかし、オレは目 が合うや否や直ぐに反らした。 その静穏な眼の奥底に隠された、恐怖すら覚える冷たい眼差しが、そいつ の瞳から垣間見えた気がした。 突然、『死神』と言う言葉がオレの胸裏を過ぎる。 それは、亡失していた遥か彼方から引き寄せられた記憶なのか、恣意的に 想像された恐怖の念なのかは判らない。しかし、どことなく胸騒ぎと不安を 感じたのは間違いないと言える。 オレはそれを理由に、半ば逃げ出す様にその場を後にした。 ――とまぁ、彼はこんな感じで私を見るや否や、人込みの中に姿を消して しまった。 彼もまた他の人々同様、気が滅入っている様子が目に見える。しかし彼の 場合、何か哀調に喘ぎ苦しんでいる様にも見えた。 こうして、大多数の人々は私の姿を見る事は無い。しかし彼の様に、一部 の極少数の人間には見える事がある。 大抵の場合、その様な人達には何かしら特殊な能力の持ち主だったりする。 きっと彼もそうなのだろう。それとは別に、彼には少し気になる点があっ た。 本人は気付いていない様だが、彼には微かに邪まな気配がした。『奴』の 手下に以前、似た様な気配の持ち主が居た気がする。 記憶を持たない私は、蓄積された情報(データ)を元に割り出した。 彼は『奴』と関わる、何か特別な過去が有るのかもしれない。もしそうな らば、いずれ私とも出会うであろう。その時、彼が敵か味方かは分からない が。 さて、今回私が人間社会に召集されたのは何故なのか。再び『奴』が動き 出したのだろうか? それとも『組織』自体が動き始めたのか……。どちらに しろ、今はまだ何も思い出せない。 だがそれすらも、もはや時間の問題だ。『記憶』が無くとも、いずれ今回 の任務(プログラム)の全容を、私の頭に残された『記録』が導き出してくれ るだろう。 さしあたって、私は何処に行く訳もなく再び彷徨を開始した。 私の名はロスト。今ここで特に行く宛も無く雑踏の中を彷徨っている―― 誕生しては消滅を繰り返す――哀れな存在だ。 |