第二章 第十話『闘の行方』

 

夜の暗闇に染まる薄暗い隘路。何処からともなく聞こえる雫が滴る音。微かに漂う饐えた悪臭に、体に纏わり付く湿った嫌な空気……。

五感が緊張と恐怖で強張る。

しかし、恐怖心に呑まれてはいけない。感情を揺るがし、判断を鈍らせる。一瞬の気の緩みが、己の生死に影響する――。

そんな事、始めから解っていた。

生まれた時から私は奴ら、『世界秩序機関』の施設に放り込まれ、あらゆる教育を受けてきたのだから……。

勿論、暗殺、体術、射撃、毒薬の取扱いから火薬の使い方まで。数えたら限が無い程に。

 

「やっ」

一気呵成に突き出す私の右手。その手から逃れる様にロストはひらりと身を躱した。私の手は、奴の後ろにあったコンクリートの壁に触れる。

その瞬間、ピキピキと音を立てながら壁が冷気によって寸陰の内に凍てついてしまった。

「やはりご自慢の能力、『フロスト』は健在か……」

「そうよ。絶対零度を作り出す私の能力を、見くびらないでちょうだい?」

私が吸血鬼として持つ特殊能力――『フロスト』――身体の一部の体温を絶対零度に変え、冷気を作り出す能力である。

しかし、その様子を見ても驚きはせず、ロストは淡々とした口調で語る。どうやら私の能力の事も全部お見通しらしい。

私は直ぐに、その能力で両手に氷の短剣を作り出すと奴目掛けて投げ付けた。嘲りを込めた一言の前に、ヒュと風を切りながら氷の刃はロストに向かう。

「だが、甘いな」

私の投げ付けた剣は奴の体に突き刺さる事も無く、ロストに軽々と手刀で打ち砕かれてその役目を終えた。この事は私の予想範囲。奴をこれ程楽には殺せない。

「今度はこちらから行くぞ!」

ご丁寧に奴はそう言うと、ふわりとした軽い足取りで反撃とばかりに私を狙って手刀を繰り出してきた。

ロストの死に誘う魔手が私に迫る。速い。

「くっ」

私は辛うじて身を反らした。

多分、奴は私の『終命死点』を狙っているに違いない。しかし、その点穴が身体のどこに在るのかは、奴にしか分からない。

「殺す前に一つ、お前に聞きたい事がある」

突然ロストは動きを止め、私に向けて話し掛けてきた。無論、その真意は定かではない。

ロストと私は一定の距離を計りながら対峙する。

「お前は何故、死を望む? お前の死想回路の燈には、『他殺願望』よりも寧ろ『自殺願望』の燈の方が強く見える」

(どういう事?)

ふとした疑問が、私の心の中に波紋する。直もロストは話し掛けてきた。

「私の知りうるアイス・ファントムとは、私と同じ機械仕掛けの絡繰人形。時には意思すらなかった者もいた。本当の意味でお前達『世界秩序機関』の傀儡に過ぎなかった者達だ。だが、君は今までのアイス・ファントムとはどうも違う。明確な意志もあれば、明瞭な意志もある」

前者と後者の脈絡が見当たらず、私は訪ねた。

「ロスト、貴方は何が言いたいの?」

するとロストは、憫笑を浮かべ言葉を零した。

「その『気持ち』、分からなくもない」

奴はそう言っただけだった。

それはまるではっきりと言わずに、わざと言葉を濁した様にも聞こえる。

それきり、ロストは押し黙ってしまった。そしてまた、ゆっくりと戦闘突入と言わんばかりに、隙無く身を構える。その眼に確かな敵意を抱きながら。

――それは、私に屹然と向けられた宣戦布告。

奴の表情に余裕が消えた。どうやら今までは様子を伺うだけだったらしい。凝視する私の姿が死神の眼に写る。

そう、目の前の男は私達、吸血鬼を血祭りにあげるため『世界の神々』が用意した至極の布石。幾多の同胞の命を奪い、数多の同族に脅威の念を植え付けたその者が、今、この場所に私と静かに対峙している。

そう思うと多少己の生命に危惧はするが、一歩退いたらそこに待つものは死。辛くとも決して苦言は言えない。

殺気が渦巻く中、私は再度氷の剣を造型する。今度は片手なんて生半可な物ではなく、両手で持たなければならない様な両刃のロングソード。ニ、三度軽く剣を振り回し、手に馴染ませる。

「行くわよ、ロスト」

「来い」

気合い一閃。一気に私は奴目掛けて、持っていた剣を真横に振る。

その瞬間、ロストは軽々と跳躍しながら空へと舞っていた。無論、奴には当たらず、後ろのコンクリートにめり込む。

私は更に追撃すべく、コンクリートに刺さった剣を抜き取ると、素早く構えて奴が着地するのを見計らいそこへ突き進んだ。

しかし、これも当たらず。するりとしなやかな動作でロストは刃を避けた。それだけではない。直ぐに毀された体勢を立て直し、反撃へと打って出る。

「瑣末だな」

その一言に乗せた死の一撃。奴は大振りな私の攻撃の虚を突き、懐に手刀を放った。

その手刀が体に触れたら最期、全身に死が襲う。

「くっ」

私は舌打ちし、瞬時にそのロングソードを手放す。

そして、寸秒のさなかに新たな小形の氷のダガーを作ると、そのまま地面へ思いきり突き刺した。地に落ちるその過程で、ロストの右手首を勢いと共に奪いながら……。

それを見て、少し驚いた様子でロストは素早く後方に跳び退く。

フッと私は柄にもなくほぼ失いかけていた顔の表情筋を弛緩させた。

「なかなか良い反射神経だな、お前も」

しかし驚きもここまで。直ぐに、いつもの穏やかな顔付きと余裕の口調へと戻る。右手の手首を失ったにも係わらず、平然としているロスト。それは強がりなのか痩せ我慢なのか、それとも痛みを感じていないのかは分からない。

しかし、その右手の手首からは血が一滴も流れていなかった。

「貴方はまるで、貴方の言う絡繰人形を越えた、冷徹な殺人機械ね?」

右手を失っても平然としている奴に、私は思わず言葉を漏らした。今し方の勝ち誇った様な綻んだ笑顔は、既にそこには無い。在るのは怪訝そうな私の気難しい表情。

「私も時々そう思う事が多々ある。もはや『神』に創られた殺戮兵器としか言いようがない私と違い、その点を危惧する必要の無い分だけ、お前はまだ『人間』に近い。だが――」

しかし、そこまで言うと死神の目が急に鋭く厳しいものになった。そして更にロストは話を続ける。

「死神はどこまでも死神。途中で『人間』になんてなれないさ」

奴は私に指差しながら、さらに続ける。

「それはアイス・ファントム、お前も同じだ。いくら明確な意思や明瞭な意志があろうとも、それでもお前は完全な『人間』には決してなれない」

そう揶揄するかの様に言った後、「まぁ、お前の場合は『人間』ではなく『吸血鬼』だがな……」――そうロストは付け加えてきた。

ロストから私に向けられた言葉――『人間』に近い――それもこれも幸か不幸か、きっと明に出会えたからなのだろう。だが奴の言うとおり、いくら私が限りなく『人間』に近かかろうが、決して『人間』にはなれない。

 

 

「ほう、ロストと亡霊(ファントム)が交戦中だとは、以外だな」

高級ホテルの一室で、男は電話の向こうの相手からの連絡を聞いて、ニヤリと口元を歪め一縷の笑みを浮かばせた。

その男――フェハードは、ソファに腰掛けてゆったりと寛ぎながら、赤ワインの入ったグラスをゆらゆらと揺らす。

『ドウシマスカ? 師匠(マスター)』

相手はブロッソルの様である。

「手出しは無用だ。お前が出て勝てる様な相手ではない。所詮、亡霊(ファントム)が死んだらそれまで。奴がロストを殺せたのなら、それもまたそれまでだ。しかし、到底亡霊(ファントム)がロストに勝てるとは思えんがな。まぁ、何れにせよ、戦闘が終わり次第連絡を遣せ」

『ハイ、師匠(マスター)』

そこで電話は切れた。

「亡霊と死神か……。それもまた一興だな。果たして死ぬのはどちらかな?」

フェハードは残酷な笑みを浮かべ、その手に持ったワインを口に含んだ。

微かな甘美が瞬時に舌へと広がる。

そのまま暫くフェハードは飄逸な面持ちで、いつになく赤ワインの味を優雅に楽しんでいた。

 

 

(相手があのアイスファントムだろうとも、そろそろ気力体力とも限界だろう)

私――ロストは、そう心の中で確信していた。

アイス・ファントムは相変わらず、能力『フロスト』を惜しみなく存分に発動してくる。

無論、この生死を賭けた死闘で惜しみなく能力を発動しなければ、この私を殺す事など不可であろう。逆にそれは、持てる力を全て出し切らなければ、私とは互角に戦えないと言う事でもある。

しかし、奴の勝率は確実に下がり続けている。しかも極度に。時間が奴の勝率を奪っているのだ。

――基本的に能力を使うにあたって、直接生命力や精神力を消費するものではない。しかし、能力を発動するにはそれ相応の代価も必要になってくる。

主に、気力、体力、集中力等があげられる。つまりそれらは間接的にではあるが生命力や精神力を消費している事になるのだ。

故に奴の気力、体力が限界に近く、そのため早く決着をつけたがっているのだと判る。

今、私とアイス・ファントムが出会い戦いを始めて、もう既に30分になるところだった。その間、奴は惜しむ事も無く能力を使い続け、休む暇も無く攻撃を続けている。しかし、奴のその顔に苦しさや疲れは見えない。いや、見せないのだ。

 

アイス・ファントムは直も果敢に私を攻め立てる。

右手のみで氷の剣を振りかざし、重さに任せて剣を振る。ふわりっと隠微に吹く、夜の冷風と殺気を交ぜた風斬音とが共に襲い掛かってきた。

私は、向けられた刃から逃れる様に仰け反る。しかし、些かバランスを崩し、ゆらりとその私の長い髪が身体の後を追う様に弧を描いた。

何とか踏ん張り、ようやく体勢を立て直した時には、奴は次なる攻撃を仕掛けていた。

「その命、頂くわよ」

アイス・ファントムは先程の右手に持って振った剣の遠心力を使い、今度は今まで手持ち無沙汰になっていた左手を私の体に向けた。

そしてその刹那、一気に冷気を流し込む。

放たれた冷気は氷の刃となり、私の体のあちらこちらに牙を剥く。しかしそれだけでは済まされなかった。全身への凍傷、裂傷の乱舞に加え、右肩が凍結していたのだ。

(これで右肩は完全に使い物にはならなくなったか……)

無理に動かせば凍結粉砕し、脆くも崩れ去るのは目に見えていた。

しかし、大して危殆を抱く必要は無い。既に右手は斬り取られて無くなっていたのだから。

 

――元々、私の本体は『影』であり、身体はそんな『影』を映し出す『幻影』に過ぎない。

その『幻影』――私の身体は、《霊的物質(エクトプラズマー)》で構成され、《物質化現象(エクトプラズム)》によって構造されている。

そもそも《霊的物質(エクトプラズマー)》とは、自然界に存在するありとあらゆる生物、自然、大地から発せられる霊的エネルギーで、肉体と幽体とを繋ぎ止めている接着材の様なものだ。

勿論、目に見えなくとも人間からも発せられている。

そんな《霊的物質(エクトプラズマー)》を私は空間中からかき集め、素粒子状に作り替える。そして、それらを組み立て《物質化現象(エクトプラズム)》によって人間の姿を構成する。

故に手首が切り取られようとも、首が削げ落ちようとも血は出る筈も無く、私の『肉体的』な生死には全く関与しない。

まぁ、確かに光りが存在する場所で『幻影』がバラバラに毀され、影が存在出来なくなった時、私は消滅を余儀なくされるのだろうが……。

 

――私がそんな無関心な目で傷の具合を見ていると、

「随分、酷くやられたみたいね」

奴はそう、心持ち嬉しそうに話し掛けてきた。

「案ずるな。所詮私は『幻影』。人間や吸血鬼と違い、この程度では死なない」

「果たしてその強がり、いつまで続くのかしら?」

私の言葉を勝手に強がりと決め付け、差し詰めアイス・ファントムは『勝てる』とでも確信したのだろう。奴は剣を振りかざし、血気盛んに斬り掛かってきた。

だが吸血鬼如きに殺される程、私は愚人でもなければ愚者でもない。

仕方無しに、私は右腕を自分でもぎ取ると地面に向けて投げ捨てた。

凍結した右腕は、劈く甲高い音を起てて粉々に砕け散る。無論、これで動きやすくなったのは言うまでもない。

私は残った左腕だけを構えると能力『死想回路』を発動し、迫り来る奴の姿から『終命死点』の燈を読み取った。

 

――遊びは終わりだ、亡霊(ファントム)。

次へ

小説TOP 戻る