第二章 第十二話『実現できぬ希望』 椛の朱色、銀杏の黄色。枯れゆく運命と知りながら、紅葉は、なおも残り僅かな命を燃やす。その哀しくも美しく見せる色彩が、恰も命の焔を連想させる。 そんな並木通りの木々達を見つめながら、私は飲み掛けの紅茶を受け皿に戻した。 「命の焔…か」 微かに囁いた私の声に、果たして誰が気付くと言うのだろうか? いや、誰も気付きはしない。 物思いに更けながら、私は暫く午後の紅茶の時間を楽しんでいた。すると、突如後ろから声を掛けられた。 「待タセタナ。レアリア」 声につられて私は後ろへ振り向く。そこには全身を黒のローブで身を隠し、深くフードを被った、真紅の双眸の男が立っていた。 オープンカフェで食後の紅茶を味わっていた、午後の昼下がり。 私はフェハードの伝言をブロッソルから聞く為に、この場へブロッソルを呼び出していた。 「あら、ブロッソル。お久しぶりね」 私は柔らかい笑みを浮かべる。 「クダラナイ挨拶ナド、要ラン」 その声色に、安らかな感じはしなかった。逆にその双眸からは殺気すら感じとれる。 「それで、あの男からの伝言って何?」 私がそう言うとブロッソルは、些か顰蹙じみる様に瞳を細め一瞥し、その重い口を開いた。 「『もはや亡霊(ファントム)は使い物にならん。近い内に奴は殺す。その時は、お前にオルケア計画を任せるとしよう』ダ、ソウダ」 そして、そう言いながら私と向き合う様に腰を降ろした。 「何でまた急にあの子を?」 私は残り少なくなった紅茶を啜りながら訪ねる。 「昨夜、フェハード様直々ニ、亡霊(ファントム)ヲ視察ナサレタ。シカシ、亡霊(ファントム)ハ男ニ溺レテ職務ヲ怠リ、心臓スラ狩レズニイル。コノママデハ、イズレ計画ニ支障ヲキタスデアロウ。ヨッテ、亡霊(ファントム)ヲ早々ニ始末スル」 ブロッソルは、冷血な調子で淡々と語る。 「所詮、あの子はモルモット(実験台)」……か。 私の小さく呟く様に漏らした言葉を、ブロッソルはフンと鼻で笑った。 「貴様モ、ナカナカ残酷ナ女ダナ」 「あら、そうかしら? 私はただ、彼女に哀れみを込めて言っただけ。こう見えても、私だって恋する乙女なのよ?」 私は余裕と言う名の冷笑を浮かべ、ブロッソルを覗いた。 奴は「フッ、ソウカ……」っと、鼻先で笑うだけに留まり、それ以上は何も語ろうとはしなかった。 「でも、何で私なの? 手下ぐらい他にも居るでしょ? 私はこれでも『枢軸幹部』直属の『特異施行派遣官』よ。『末梢指揮官』の、あの男の下僕に成った覚えはないわ」 私は幾分、厳しい口調で訝る。 ――確かに不可思議な話であった。 『末梢指揮官』は『中枢機関』の配下で動く、奴等の従者。そして『末梢指揮官』の下で働くのが『末梢部員』である。部下なら、フェハードの手下の『末梢部員』を使えば良いものを……。 「タマニハ育テノ親ニ、親孝行ヲスルモノダ。オ前ヲ『世界秩序機関』ノ『暗殺処理班』カラ『特異施行派遣官』ニ育テタモノ、フェハード様ナノダゾ」 「へぇ……。『銀腕の魔剣士』と謳われた貴方の口から、そんな言葉が出るとは思わなかったわ」 意外なブロッソルの言葉に、私は少し驚いてみせた。 「フッ。吸血鬼ハ、ソノ長スギル寿命ガ、親子関係ト言ウ物ヲ希薄化サセテイルト聞クガ、全ク、ソノ通リダナ」 ブロッソルの口から漏れた言葉が物語るのは、呆れた感情と溜め息交じりの落胆。しかし、私はその言葉を聞き流し、すまし顔で紅茶を啜る。もとからそんな話になど、興味が引かない。 私には分からないが、どうやら(ブロッソルを含め) 奴等『堕天使』には、義理や人情を重視する傾向があるらしい。それは、ひょっとすると『天使』だった頃の彼等の良心の名残なのかも知れない。 そもそも私達『吸血鬼』には親がどうこうと言う様な感情を持たない。自分に危険が及ぶとしたら親だろうが、子だろうが消し去るまでなのだ。 《殺られる前に殺れ》 そう、この世で一番大切なのは己の命。それが、古より『天使』どもに狩られてきた私達『吸血鬼』が見出した法則。 そうなれば、やはり私達『吸血鬼』と彼等には『種族』と言う名の隔たりと価値観の違いがあることは否めない。 「そう言えば……」 私はそう言いかけて、示唆する様に何気なく一枚の写真を取り出した。 《後日調査する》 そう私が書いた写真を受け取ったブロッソルは、心持ちニヤリと微笑んだかの様に思えた。 「フッ。『彼の者』カドウカ調ベルノダナ……。了承シタ。フェハード様ニ、ソノ旨ヲ伝エルトシヨウ」 そう言ってブロッソルは、そのミスリル銀の義手で写真を受け取ると、懐にしまった。そして、椅子から立ち上がり踵を返す。 「連絡ハ、明後日ヨコセ……」 最後にそう言い残すと、直ぐに路地裏へと姿を消した。 そんなブロッソルの後ろ姿を眺めながら、カップに残っていた最後の一滴を飲み干した私は、ショルダーバッグから一枚の古びた写真を取り出す。 「クラウ……」 私は一人虚しく呟いた。 あの写真に写し出された男――春日良――が、本当に『彼の者』か、どうかを判断出来るのはこの私だけ。 『彼の者』――クラウ=ネイディルト。私の義弟であり、私が唯一愛した異性でもある。 ティーカップの隣に置かれた写真の中で、永遠に変わる事のない微笑を浮かべている幼い私の義弟。そして、9年前に生き別れになった義弟を今なお求め続けている愚かな私。 私は触れる事も話す事も出来ず、ただ写真越しに義弟を見詰め続ける事しか出来なかった。 夜――路地裏の微かな外灯の光りの中、雪奈は『世界秩序機関』の本部、『中枢機関』へ『オルケア』のサンプルと研究レポートを提出する為に一人の女性と会っていた。 金髪の長く美しい髪、清澄な蒼い瞳、そして凄艶な容姿。年齢は雪奈と二つ違い――19歳と本人は聞いている。 そう、清楚な漆黒のドレスを纏った清閑な雰囲気の女性――レアリアは、全てにおいて彼女の上をいく存在であった。 ――事の顛末は、雪奈がフェハードから忠告を受けて一週間程経ってからの事だった。それは今晩から数えて一昨日の深夜11時に至る……。 その日、雪奈は遂に9人目の殺人を犯した。今夜、渡す『オルケア』のサンプルの為だけに。 今回の生贄は会社帰りの若い女性だった。 いつもの様に、能力『フロスト』を使い凍死させた後、心臓を取り出す。血液も凍てついている為、返り血はおろか一滴の鮮血すら流れない。 その凍てついた如く、表情を一つも変えずに慣れた手つきで『処理』を施してゆく彼女は、まさしく『氷雪の亡霊』の名に相応しい。 そうして今日、雪奈は『世界秩序機関』の本部へ提出する研究レポートとサンプルを渡す為、『特異施行派遣官』であるレアリアと会うことになったのだった……。 レアリアは口を開いた。 「相変わらずね、氷護ちゃん。今日の新聞の紙面に、堂々と『心臓を狩る者。その名は氷雪の亡霊、アイス・ファントム!!』なんて掲載されているのを見たわよ」 「はい……」 雪奈は、項垂れた様に視線を地に向けたまま呆然と呟いた。 「ところで――」 急にレアリアの目付きが変わる。まるで、獲物を見付けた獣の様な鋭い眼差し。 「約束通り『オルケア』のサンプルと研究資料を渡して」 その淡く白い腕が伸びる。そして、誘われるかの様に持っていた小さな黒い革製の鞄を渡した。 「……」 雪奈は唯、虚ろな目をしていた。死んだ魚の様な、投げ遣りで無気力感に満ちたそんな感じの目だった。 「どうしたの? 何かあったの? 私で良ければ相談にのるわよ」 彼女は鞄が自分の手元に来ると警戒を解除したらしく、先程と同じ様に柔らかな表情へと戻る。 「……その、別れたくないんです。彼と……」 雪奈は幾分躊躇いがちに、悄然と答えた。 「と、言うと?」 「この前、フェハード様にこれ以上彼と一緒にいたら、彼を殺すと言われて……。だからそれ以上、付き合わない様にしているんです」 「うん」 「でも、別れたくないんです」 そこまで来るとレアリアは、困り果てた様に顔を顰めた。 「うーん、厄介な問題ね」 彼女は更に言葉を続ける。 「でも、あなたの人権は既に『世界秩序機関』によって破棄されているのよ? 氷護ちゃんの言い分を、血も涙も無いあの男(フェハード)が聞き入れてくれるかしら?」 「分かってます……」 しょんぼりと元気のない返事が返ってきた。 「一つ、言わせてもらうけど、自分の命だけは大切にしなさい」 「?」 雪奈はその言葉の意味が理解できなくて、首を傾げた。 「これ以上、貴女が余計な感情を持つとしたら、フェハードとブロッソルは、間違いなくあなたを殺そうとするわ。現にブロッソルはそう言ってたわよ」 「……」 「だから、もし命が惜しかったら任務を。それでも彼との恋を選ぶのなら死を。最後の選択は氷護ちゃん、あなたにあるのよ」 「どうして……。どうして私は『末梢部員』なの? もっと地位が高かったら……」 レアリアの言葉に、慨然と雪奈は愁訴した。 そう、彼女もレアリアの様にもっと地位さえ高ければ自由な身になれた。そう思うと、酷く悲しい気持ちになる――悔しい。唯一つ、その言葉だけが雪奈の心に残った。 「そうね……。でもまぁ取り敢えず『本部』に戻った時、『上』からの許可貰って氷護ちゃんを私の管轄下に置くようにしとくわね。いくらあの男(フェハード)が『末梢指揮官』だとしても、上層たる『枢軸幹部』直属の私達、『特異施行派遣官』の命令には奴も逆らえない筈だし」 嬉しさと己の悔しさで相好が歪んでいた雪奈は、滲出した涙を拭いながら答える。 「有難うございます」 「いいのよ。貴女の気持ち、痛い程分かるから……」 そう、今朝方春日良の見舞いに行ってきた彼女にとって、今の雪奈の気持ちが痛いよく分かった。 「じゃあ、私はこれで」 レアリアが退散しようと雪奈に軽く声を掛けたその時、彼女達の背後で何か物音がした。 咄嗟に二人は、音のする方へと顔を向ける。その視線の先で何かが蠢動していた。 そこに現れたのは、ワラワラと蠢く正気でない若い不良達。既に『処理』された後の様で、首筋には二つ小さな刺し傷がある――吸血痕だ。 「どうやらフェハードの差し金が、早速お出ましの様ね?」 レアリアはスッと表情を押し殺したまま、素早く身を構えた。つられて雪奈も身構える。するとレアリアは、 「あなたは逃げなさい。ここは私が。あと、分かってるとは思うけど、私がこっちに戻るまで二、三日はフェハードには近づかない事。良いわね?」 と、雪奈を宥めた。 彼女が無言のままコクリと頷くと、レアリアは指先の爪を細長く鋭い針状に変化させ、既に『処理』された奴等、『下等種』達に向かって疾走する。 それと同時に、雪奈はレアリアとは逆の方向に向かって疾走し、路地裏から飛び出して繁華街である駅前の商店街へと逃げた。 それは『自然に』ではなく寧ろ『故意に』と、言った方が無難なのかもしれない……。 結局のところ、彼女にとって俺は何の助けにも成らなかったらしい。それが直接の禍因なのかは定かではない。しかし、幾分かの間接的な影響があった事は否めなかった。 いずれにせよ、氷護と勉強したあの夜を境に彼女が変わってしまった事だけは、はっきりと言える。 ――その翌朝、俺は駅のホームでいつもの様に彼女に声を掛けた。しかし氷護は、俺を無視した上に一人で勝手に電車に乗り込んで登校した。 それだけではない。 彼女の冷たい視線や冷めた行動、冷えた言語……。 致命的だったのは、休み時間の教室で氷護に声を掛けた時である。 『鬱陶しいから、これ以上付き纏うのは止めて!』 唖然となった。 氷護は確かに俺に向かって、蛇蝎を忌み嫌う様にそう言ったのだ。それが彼女の吐いた言葉だとは、俄かに信じられない。 なぜなら、それらの氷護の俺を厭悪する一連の言動が、『最もらしいが、どこかわざとらしい』ものだったからだ。 そして今も俺は、彼女の本心がどうなのか分からないまま、いつまでもこの妙な違和感を拭い去れずに心のどこかで引きずっていた。 そんな日々が一週間とちょっとばかり過ぎた頃だっただろうか。突然、何の前触れもなくその謎が解ける日が訪れたのは……。 ――紅葉の季節も終わりを告げ始めた、11月も中旬の事。時は既に夜の8時を過ぎている。 この日も俺は部活で帰りが遅くなり、独り虚しく夜の駅前の商店街を足早に歩いていた。 その時、俺の目の前に突如制服姿の氷護が、慌てて路地裏から飛び出してきたのだった。俺は迷わず彼女へ声を掛けた。 「ひ、氷護!」 「?」 氷護は俺の声に反応して、こちらを振り向く。 「!!」 その瞬間、彼女は驚愕の表情を浮かべ、同時に悲しみに満ちた瞳で俺を見詰め返していた。それは重く、痛く、苦しい程に……。 「氷護、話したい事があるんだ」 俺は彼女の本心を知りたくて話し掛けた。しかしその刹那、氷護は何かに怯えた様に走り去ってゆく。 「あ、おい。氷護、まってくれ」 俺も彼女に続いた。 「俺は君を助けられるか分からない。それでも、心から君を助けたいと思ってる」 俺は走りながら、氷護に向かって叫んだ。 周りにいた数人の通行人はこちらを向き、変な目で一瞥してゆく。しかしまた、興味を失っては元通りに歩き始める。そんな有象無象共を俺は気にも留めなかった。
そもそも、走るとは言っても俺は中学では陸上部に所属していたので、結構持久走には自信があった。そして、予想通り間もなくして――そう、距離にして300メートル程の所で――俺は彼女に追い付いた。 「はぁはぁ、やっと捕まえた」 遂に観念したのだろうか。急に立ち止まって動かなくなった氷護の肩に、俺は手をそっと置く。 「明……」 彼女は振り向きもせず呟く。それは微かながら、哀調に聞こえた。 「氷護、一体どうしたんだよ? 俺が嫌いになったのか?」 しかし氷護は俯いたまま、ただ首を横に振るだけ。 「じゃあ、どうして?」 今度は氷護の正面に立つと両肩を強く握り、揺する。 「……」 それでも氷護は目を地に伏せたまま、何も語ろうとはしなかった。その代わりに返ってきたのは、頬を滴る涙と微かな歔欷。 「何とか言えよ!」 俺が嚇怒したその時、彼女は細々と囁いた。 「もう、明とは会えないの……」 喉の奥から絞り込まれた隠微なその掠れ声は、俺にとって彼女の悲痛な叫び声にも聞こえる。 「どうしてだよ……」 勝負に負けた負け犬の様に、俺は半ば泣きそうになりながらも訪ねた。 「私は誰かを好きになってはいけないのに……、なのに私は……」 氷護は涙で湿った瞳で俺を見詰め、そして虚しい咆哮の様に嘆き喘ぐ。 その時の氷護の姿は、見も心もずたずたに傷ついた天使そのものだった。その見えない傷からは、悲しみの血が流れ出ている。 彼女の表情は、暗澹に満ちていた。苦痛に染まっていた。絶望に埋もれていた。まるでそれは……、 ――救われない、救いようがない。 そう、そんな感じだった。 |
|