第二章 第十三話『君がむのならば…』

 

それを悟ったその瞬間、見えない何かが俺を襲った。

それは歪だった。歪んでいた。ひどく歪曲していた。まるでそれは、凹んで紆余った缶カラだ。

 

(くそ! くそ! くそ! くそ!)

 

茫漠とした彼女の答えを前に、どうする事も出来ない無力で非力な自分。

そんなちっぽけな己が、無性に腹ただしい。

 

(でも……、それでも、どうにか彼女を救いたい)

 

そう思えた瞬間、何かが喉下からこみ上げてきた。

「君が望むのならば、何だってする。例え自分を犠牲にしてでも、この手を血で汚しても、世界を敵に回そうとも。それでも俺は、君を助けたいんだ!!」

胸の奥が熱い……。気が付けば、俺はそんな心の奥底で眠っていた気持ちを、有体のまま懸命に叫んでいた。

「あ、明……」

俺の耳に氷護の涙で濡れた声が微かに届く。もはや彼女はそれ以上何も言えなかった。

氷護は鳴咽の中、俺に抱き着く。俺もまた彼女を優しく抱擁した。

 

――私は彼に酷い事をした。とても酷い事を言った。嫌われて当然だった。

別れたくなかった。私も、もっと明と一緒に居たかった。分かっている。でもそれが出来ないから、こうするしかなかった。

だから、彼を傷付けた。そして、私も傷付いた。

そうして、本当はとても彼に近付きたかったのに、平気な顔して私達は傷付けあって威嚇しあいながら、わざと距離を置いていた。

切なかった。

悲しかった。

寂しかった。

苦しかった。

そして、凄く……すごく痛かった。

 

 

私は明を連れて、自分のアパートに向かっていた。

彼は、こんな愚かな私を許してくれた。明のその言葉を信じて、私は彼に全てを打ち明けようと思っていた。

明なら私の全てを受け止めてくれる。そう、私の許されない過ちも罪も。そして私の哀しい過去や素性ですら……。

彼となら、何もかもを乗り越えられると思った。

「待って!」

私の住んでいるアパートが見え始めた頃、私は急に立ち止まった。

アパートの前に黒のロングコートを着た『あの方』が、静かに待ち構える様に立っている。

幸い、まだこちらには気が付いていない。しかし、見つかったら恐らく……。

「明、こっち!」

「え? お、おい」

後ろにいた彼の手を半ば強引に引っ張り、私は元来た道をまた走りだした。

「ドコ行くんだよ?」

走りながら明は戸惑い気味に私に尋ねる。

「どこでも良いの。とにかく離れなきゃ!」

夜の暗闇に私の焦る声が響いた。

 

 

行き場を失った捨て猫の様な私を、明は自分のマンションに誘ってくれた。

「いつもと違って掃除してないから汚いけど、どうぞ」

ガチャリと扉を開けて、彼は私を部屋へ招き入れる。

リビングのソファの上に、肩に掛けていた鞄を置きながら私は腰掛けた。暫くすると、部屋の奥から制服を脱いでシャツ姿に成った明が現れた。

「ごめんなさい……迷惑かけて」

「良いんだよ。こうしてまた氷護と会えたんだから」

微笑を浮かべた彼が、今日は一段とカッコ良く見えた。

「えぇと……」

私は言葉を詰まらせる。何だか頬が紅くなった気がした。

「あ、今から夜飯作るけど、氷護も食べる?」

明はキッチンの壁に寄り掛かりながら、私に尋ねてきた。そう言えば、夕食をまだ済ませていない。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「何食べたい?」

「明にお任せするわ」

「うーん、じゃあオムライスでも作ろうかな?」

「あ、私も手伝う」

「大丈夫、作るのには慣れてるから」

そう言って私が立ち上がろうとするのを、明は優しく遮った。

 

「ご馳走様」

「お粗末様でした」

私が言うと山彦の様に明が言葉を返した。

彼は一足先に立ち上がり、皿を持ってキッチンに向かう。

「そう言えば、明のご両親は?」

私は、最後の一口を口に運びながら尋ねる。

「あぁ、父さんは社内旅行で明日まで居ない。母さんは今夜、仕事で戻らないよ」

するとキッチンから明の返事が戻ってきた。

「ねぇ、明……。今夜ここに泊まっても良い?」

「え?」

今まで聞こえていた皿を洗う水音が、一瞬途絶えた。

「私……、今日はアパートには帰りたくないの。迷惑言ってごめんなさい。でも、今日だけは明と居たい」

私は皿を持って立ち上がる。

「言っただろ? 君が望むのなら、何だってするって。駄目な訳ないじゃないか」

「ありがと」

私は、キッチンで食器を洗っている彼の隣に並ぶと皿を渡し、感悦の気持ちを彼の頬にキスをする事で表した。

すると明は、瞠目しながら無言のまま暫らく頬を紅潮させていた。

 

 

俺が風呂から上がると、既に入浴を済ませた氷護が俯いたまま顔をして待っていた。

「待たせてごめん。それで、氷護は俺に何を隠しているんだ?」

俺は氷護と向き合うようにソファに座る。

「私の全て……」

「すべて……?」

俺は首を傾げた。その言葉の意味が示唆するモノが見当たらないからだ。

「私は……、私達は、『人類の敵』なの……」

「人類の……敵?」

「そう。私は……」

氷護が何かを言いかけたその刹那、彼女の背中に蝙蝠か何かの羽の様なモノが瞬時に姿

を現した。

「私は吸血鬼。人間の血を食す、闇の悪鬼……。人もたくさん殺してきたわ。そう。今、世間を騒がせている連続猟奇殺人の犯人は……私よ」

彼女が悲しげな表情を浮かべていた事など、喫驚に包まれていた俺が知る由もなかった。

「嘘……だろ?」

朧気に囁く俺。

頭の中では吸血鬼の存在を否定しつつ、視覚から入ってくる情報が否定を打ち消す。

(氷護が……人殺し? 違う……ありえない。そんな分けない。あんなに優しい氷護が、冷徹な殺人鬼?)

思考が脳で錯綜し、その時の俺は酷く混乱していた。

 

「確かに私は血に汚れた存在。決して許されない罪を背負った救われない身。それでも私は、貴方が好きなの」

私は忸怩しながらも、胸底の想いを披瀝する。そう、それが私の想いの全てだった。

「真実を知る事が、全てじゃないとは思ってた。私も明には知られたくない事だってたくさんあった。でも、明だけには偽りたくなかったの。私だって明の事、もっと知りたい。だから、だから……」

それは凄愴、惨憺、悲劇……そして残酷だった。

それでも私は、自分の心を傷付けながらも真実を伝えるしかなかった。それはまるで、今まで犯した罪を悔い改め、神の前で告白するかの様に……。

「もう、よせよ。自分を傷付つけるのは。いくら過去に汚点があろうとも、俺の気持ちは変わらないよ。君が望むのなら、何だって受け入れられる」

その時の明の表情には、もはや困惑や驚愕と言った迷いはなかった。そこにあったのは、優しい彼の天使の微笑み。

私は明のその言葉に、この呪われた身を清められた気がした。

「あ、ありがとう」

それ以上の言葉が見付からない。いやその時には、もはやそれは言葉に成っていなかった。言葉と共に頬を流れる一粒の涙を、明は指で優しく撫でる様に掬ってくれた。

気が付けば私は明の胸の中で抱かれ、泣いた。泣いた。泣いた。泣きまくった。声をあげて子供の様に泣きじゃくった。涙が枯渇するまで、明の胸の中で泣き続けた。

そして泣き疲れた私は彼と共にベッドへ身を沈め、肉体も精神も、『私』と言うその全てを彼へ委ねた。

明は優しく接吻し、愛撫し、抱擁してくれた。それはまるで、汚れきった罪を洗い流すかの様に……。

 

 

翌朝、私は明のマンションで朝食後を食べた後、明と一緒にアパートへ帰宅していた。

今日は土曜で学校は休み。

9時を過ぎれば、商店街もちらほら店を開ける所が出てきたが、未だ多くの店はシャッターを降ろし、その店先を堅く閉ざしている。それゆえ、人も疎らで、お世辞にも多いとは言い難い。

そんな商店街を私は明と仲良く手を繋いで歩いていた。

(さすがにもうフェハード様は帰っただろう……)

そんな事を頭の隅で考えていたその時、突然陰影から一人の男が姿を現した。

「彼氏と仲良く朝帰りとは、いいご身分だな。亡霊(ファントム)」

「フェハード様……」

そのロングコートを着た30代後半の男は、間違いなくフェハードだった。

愕然と私が呟くと、明は小声で私に尋ねてきた。

「この人、誰?」

その瞬間、フェハードの手が明の上着の襟首を乱暴に掴かんだ。

「言った筈だぞ、亡霊(ファントム)。『処理』すると」

フェハードの瞳が、剣の如く鋭く光った。そして、襟首を掴んだまま彼を人目に着きにくい路地裏に引きずり込む。明は幾分抵抗していたが、尋常ではないその力の前には何をしても無駄だった。

私は何も出来なかった。ただ、起きてしまった出来事を客観的に見ているに過ぎない。そして、私が急いでフェハードの後に着いていった時には、明は硬いアスファルトに体をそのまま投げ捨てられ、叩きつけられ転がっていた。

「ぐっ……。一体、お前は誰なんだ?」

と、身を起こしながら尋ねる明に、フェハードは嘲笑を浮かべながら答える。

「ふん。貴様如きに名乗るつもりはない」

そしてその刹那、彼の鳩尾辺りに蹴りを打ち込んだ。

「がはっ」

明は一瞬だけビクッと身を震わせると、蹴られた所を手で押さえながら踞る。

「明っ!」

私は叫んだ。しかし、体が畏怖と恐怖で言うことをきかない。私はいつの間にか束縛されていたのだ。恐怖と言う呪縛と見えない牢獄に。

そんな私を尻目にフェハードは冷笑を浮かべ蔑視すると、明へ矢継ぎ早に殴る蹴るの暴虐の限りを尽くす。

「やめて……、お願いフェハード様。やめて下さい。このままでは、彼が……明が、死んでしまいます」

それでも私は、明を助けるため泣きながら自らの非を謝り続けた。しかし、フェハードは、お構い無しに明の体を傷つけ、弄び、暴力を止めようとはしない。

「あれだけ『処理する』と警告したにも拘らず、関係を持ち続けたという事は、所詮死んでも良い様な相手だっただけなのだろう? 亡霊(ファントム)?」

その一言の前に、もう、私にはどうする事も出来なかった……。

そんな時、一人の男が現れた。年は50代と言ったところだろうか。ぼさぼさな髪に、不精髭を生やした男だった。

その人は、腕を振るうフェハードの二の腕を掴むと、顔を顰蹙させながら呟く。

「若造相手に大の大人が腕を振るなんて、恥ずかしくねぇのかい?」

「誰だ、貴様は」

フェハードは少しばかり驚くと、その男を睥睨した。

「警察だ。……嬢ちゃん。そこの小僧を連れて、早くどっかに行きな」

相変わらず腕を掴んだまま、警察手帖をフェハードの顔の前に突き付ける。そして、今度は私に向かって顎で示した。

私はその知らない刑事さんに言われるがままこくりと頷くと、倒れ込んでいる明の傍に向かい、そして彼の肩を担いで引きずる様にその場を後にした。

 

「さてと……、次はお前さんだ。ちょっくら名前と住所、あと職業を聞かせてくれ」

高野光平は二人が去ったことを確認するとフェハードの腕を放し、持っていた手帖を開いて懐からとボールペンを取り出した。

「貴様の様な、日本の警察官如き者に答える義務は無い」

そんな光平を、目の前にフェハードは恬として平気な顔をしている。

「お前なぁ。そんなら暴行罪の現行犯で、しょっぴくぞ」

光平は半ば呆れ顔で、脅しを掛ける。

「ほぉ、貴様如きにそれが出来るのか?」

しかし、フェハードはなおも高邁な態度を崩さず、恬然していた。

「しかたねぇな、午前9時24分。暴行罪で現行犯逮……がはっ」

光平はフェハードの手首に手錠を掛けようとしたその寸隠のさなか、奴のもう片方の手――左手が光平の頭を襲う。

フェハードは、その異常なまでの力を利用し光平の頭を鷲掴みにすると、コンクリートの壁にその頭を思い切り押し付けた。

「見せてやろう。貴様に我が能力、『ドレイン』の力を!」

フェハードはその状態で光平に向かって謳うと、ニヤリと不敵な笑みを零す。

「がっ……。がはっ……。あぁ……」

その瞬間、光平がみるみる憔悴し、枯れていく。それは悲鳴とも咆哮とも断末魔とも言えぬ、最期の呻き声を残しながら……。

そうして最期には、ミイラとなって公平は生き絶えた。

「くくく……。身の程知らずの馬鹿な人間め」

フェハードは掴んでいた光平の頭をゴミを捨てるかのように放すと、悠然と嗤いながらその場を後にした。

そこには、生気を吸われて変わり果てた木偶人形の様な、光平の痩躯の死体しか遺されていない。

 

――この高野光平の怪死の一報が筒美紀之の耳に入ってきたのは、この日の夜遅くの事だった……。

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