第一章 第ニ話『溜まりの短刀』

 

地面に転がる空の薬莢、立ち上る硝煙の匂い。血溜まりの短刀と頬に当たる生温い風は、底知れぬ何かを物語っていた。

「はぁはぁ」

深い、深い、晦冥の森の中、その眼下に広がるのは漆黒の闇夜に沈む哀れな骸達。四肢は、どれも尽く無惨に断たれて、行き場の無い手足だけが虚しく群がっている。

天使――そう、その亡骸は紛れもない天使だった。

純白の羽と汚れを知らない白いシルクの羽衣は、初めて吸うであろう真紅の血に埋もれ、数体にも及ぶ死体からは無念の咆哮が聞こえてくる様であった。

そして――そこに存在するその全てが、惨憺な迄に容赦無く斬り刻まれていた。

 

「これで全員、殺したのか?」

その場に静かに佇んでいた幼い――身なりや背丈からすると歳は12歳程の――少年は独り呟く。

適度に伸びた黒髪、あどけなさが残る幼い顔立ち、そして全身血塗れの漆黒の暗殺着……。

その少年は血溜まりに突き刺さったままだった短刀を引き抜くと、疲れた様に呆然と立ち尽くしたまま、それきり動こうとはしなかった。

ぽたっ、ぽたっ。

一つ、また一つと落ちる鮮血。それは少年に握られたプラチナ色の短い短刀から雫となり、静かに滴り落ちている。

そんな屍の中、微かながら未だに蠢く気配が感じられた。

「だ、誰か居るの?」

少年は怯えていた、何よりも自分に。生ける者がそこに居るのならば、またその命を否が応でも断たなければならない。

殺らなければ殺られる――少年は暗殺者として、そんな危険と隣り合わせの世界に身を置いていたのだ。

いよいよその蠢く者は、死者の山と鮮血の海からその姿を現す。それに伴い少年もまた、静かに血塗られた短刀を構える。

しかし、以外にも少年の目の前に現れたのは歳の近い、或いは同じくらいの幼い少女だった。

ショートカットの黒髪に大きな瞳。背丈は少年より少し小さく、その白の羽は、鮮血をどっぷりと吸って重くなり、微かに羽ばたくだけで血が辺りに飛び散る。

大きな外傷は特に見当たらなかったが、血の洗礼を受けた如く全身を真紅に汚染させていた。

着ていた白地の衣は所々裂け、その下の素肌を露出させている。それがまた妖艶かつ、美麗な雰囲気を醸し出していると言っても過言では無い。

その血色に染まった天使の少女は泣いていた。

「りょーくんのせいで、皆死んじゃったよ」

あどけない少女は悔し涙を拭いながら語る。彼女にとって少年は顔見知りの様だ。

「仕方なかったんだ。僕が生きる為には殺すしかない。殺さなければ、代わりにこの僕が殺される」

そう言って、少年は屍の中を泣きじゃくる少女に向かってゆっくりと歩き始めた。

「来ないで!」

不意に少年の足が止まる。見れば少女は懐から白銀の短銃を取り出し、銃口を少年の胸に向けていた。

「君に僕が殺せるのか? 僕は生粋の殺人鬼だよ? 少なくとも今の僕には君と違って殺す事に躊躇することは無い。君がいくら僕の恋人だったとしても、生きるか死ぬかの背戸際に私情を挟むまで僕は愚かじゃないよ?」

少年は微かに笑みを浮かべる。全く死を恐れてはいないといった感じで微笑んでいた。逆にそれは、少女に対する恐れよりも信頼からきている。

「違う! 昔のりょーくんはそんな事言わなかった。あの頃のりょーくんの優しさは何処に行ったの?」

「そんな物、既に過去に捨ててきた」

突如、少年の表情が変わった。凍月の様な冷徹な瞳が少女を見据えている。そんな怯える少女を気にもせず、少年は更に突き進んだ。

「何故君は僕を殺しに来たんだ? 僕は君を殺したくはない。君だってこうなる事くらい分かっていただろ?」

いつしか少女は少年に抱かれていた。緊張が解けたのか、少女はますます大粒の涙を流しながら、短銃を構えていた右腕を力無くだらりと下ろす。

「一緒に逃げよう。りょーくんと一緒なら、神様に背いても恐くないよ?」

涙に濡れた幼い顔を見つめながら、少年は首を横に振る。

「天使は天使、吸血鬼は吸血鬼。所詮、僕等は相反する存在なんだ。いつかは殺し合わなければならない運命にある。今逃げても、将来必ず君は僕を殺しに来る」

「そんな事無い!」

涙声で少女は必死になって叫ぶ。だが、その願いは叶わない。少年は哀しく少女の耳元で囁いた。

「さよなら。せめて君の最期にその血を吸わせておくれ」

その瞬間、彼女の白い首筋に少年の吸血牙が襲う。

取り立て吸血衝動に駆られたと言う訳では無い。単に彼女の身体を斬り刻みたくはなかった。唯それだけだった。

「りょーくん……」

虚ろな目で少女は呟く。見れば傍らで少年が泣いていたのだ。

薄れゆく意識の中、初めて見る少年の涙に少女は少し戸惑いながらも、自分の死を悲しんでくれる彼の想いに微かな安らぎを覚えた。

(りょーくんは私を嫌ってなんかいない。愛してくれた、本当に……)

そうして、しばらくすると少女は動かなくなった。

「どうして……どうして君は天使なんかに生まれたんだ。こんな辛い結末を僕は望んでなんかいない」

月夜が仄に照らす鬱蒼とした森の中、少年は冷たくなった天使の少女を抱き、嘆き、苦しみながら泣き叫んでいた。

 

 

「夢……か」

気がつけばそこは病院の一室だった。

窓から差し込む朝の光りが目に入り、オレは瞳を細める。

知らない悪夢に魘されて、シャツは冷や汗で濡れていた。

(オレは一体どうなったんだ?)

あの後の記憶がない。

確か……弟切先輩の殺害現場に出向いて、レアリアとか言う妖しい女性に会った事だけは覚えている。

そんなオレが頭の中で必死に今までの記憶を整理していると、不意に病室の扉が開いた。

「お、お兄ちゃん!」

その声にオレは視線の先を扉の向こうに移す。そこには制服姿の妹が立っていた。そして、妹は直ぐにオレが寝ているベッドに駆け寄って来る。

「良かった、意識が戻って。お兄ちゃん、昨日はどうしたの? 本当に心配したんだから……」

泣きながら叱る様に心配する妹――春日成海(カスガナルミ)を見て、オレは何だかホッとした。

「悪いな、成海。心配かけて」

優しく妹の頭を撫でていると、後ろから白衣を着た医者が看護婦を連れてこっちに来た。

「春日良君。どうだね、具合は?」

「あ、はい。大丈夫です」

突然の事に驚きつつ、オレは答える。

「良君は兄想いの可愛い妹さんを持って幸せね? 成海ちゃん、一晩中良君の側に居て片時も離れないで心配してたんだから」

若い看護婦さんはオレの少なくなった点滴を取り外しながら、そっと言い残していった。

「そう……なのか?」

オレは成海に視線を向ける。妹は何故か頬を紅くしつつこくりと頷いた。確かにオレに似ず、成海は顔も整っているし、慕ってくれるそんな妹をオレは可愛いとも思う。

「先生。オレ、何かの病気なんですか?」

手を成海の頭の上に置きオレがそう訪ねると、ハハハと笑いながら白衣の医師は答える。

「単に疲労が祟っただけだよ。今日は念のため異常が無いか検査して、もし無かったら退院できるよ」

「まぁ、勉強も部活も程々に」最後にそう付け加えて、白衣の医者はまた看護婦を連れて戻って行った。

バタンっと扉が閉まると、成海とオレの二人だけとなった。

沈黙が流れる。何となくこの頃、妹を避けていると言うか、遠くに感じる事がある。昔はもっと身近に感じたのだが……。

「お兄ちゃん……なんか魘されていたけど恐い夢でも見たの?」

突如成海は沈黙を破り、オレに尋ねてきた。

あの夢の事を言うべきか、言わぬべきか……。

「ううん、成海の顔見たらもう大丈夫」

オレは言わない事にした。これ以上、妹に心配させたくはなかったからだ。

「お兄ちゃんったら」

クスクスと笑う成海。そんな妹を見ながら、オレは何となく感じた不安を消し潰していた。

 

――成海の話によると、あの後気絶していたオレは、見回りの為校内を巡回していた宿直の先生に無事発見され、救急車でそのまま病院送りにされた……らしい。

 

その後、成海は高校に向かい、オレが遅い朝の病食を食べ終えた頃、突然病室の扉がゆっくりと開いた。

そこからはあの黒のドレスが垣間見える。

「ご機嫌よう。春日良」

そう悠然とした口吻で中に入室してきたのは、あの長い金髪の女性。間違いない、オレを病院送りにした張本人、レアリアだ。

彼女はオレの威嚇の眼差しを気にもせず、近寄ってくる。何故か手には手提げ鞄が見えるのだが……。

「何しに来たんだ? 今度はオレを殺す気か?」

「そんなに怖がらなくて良いじゃない? 私は貴方の敵ではないわ。それに最初に斬り掛かったのは貴方の方よ。少しは頭が冷えたかしら?」

彼女は涼しげな笑みを浮かばせながら答える。

人を殺しかけておきながら、いつから味方に成ったのやら……。オレはそんな事を心の中で考えていると、彼女は「これ、返すわ」と言いながら手提げ鞄からオレの短刀を取り出し、示唆するかの様に机の上へ置いた。

そして、次に取り出した物は……、メロンだった。

「はいこれ。ええっとこう言う場合、『お土産』って言うのかしら?」

「違う。『お見舞い』って言うんだ。だいたい、毒でも入ってるんじゃないのか?」

オレはメロンを受け取りながらも、嫌味を口にする。

「あらあら、私も随分貴方に嫌われたみたいね。何なら私が毒味しても良いのよ?」

疑って当たり前だ。

彼女は椅子に座ると「皿、借りるわよ」と言いつつ、また自分の手中にメロンを納める。そして、近くにあった包丁でさくさく切り別けてゆく。

「はい、どうぞ」

オレは幾分複雑な心境だったが、手渡されたメロンを受け取らずにもいられなかったので「デザート代わりだ」と自分に言い聞かせ、素直に食べる事と決めた。

ついでに、食べながら彼女に問い質した。

「あんたは一体何者なんだ?」

レアリアは手を休め、メロンを机の上に置くと少し戸惑いながらも答える。

「平たく言えば世界の敵。或いは侵略者」

それを聞き「オレをバカにしているのか!」と怒鳴りたくなったが、次の瞬間辛うじて思い止まった。

「私は……、私達は『ヒト』じゃないの」

そのレアリアの悲しげな台詞と共に、彼女の背中からコウモリの羽の様な異質な物が瞬時に生えたのだ。

「人間は私達を『吸血鬼』……と、呼ぶわ」

あまりの驚きに、オレは思わず手に持った食べかけのメロンを床に落としてしまった。もしあの時声を立てていたならば、逆に怒鳴り声は叫び声へと変わっていたかもしれない。

「失礼ね、そんなに驚かないでよ」

そう言って彼女は、驚いているオレの様子を横目で見ながら落としたメロンを拾うと、タオルで床を拭いた。オレはと言うと、まだ口をもごもごさせながら口籠っている。

「ば、化け物」

しばらくして、ものが言える様に成った時、始めて口にしたのがこの言葉だった。

「だから言ったでしょ、人間は私達を見ると妙に敵対したがるって」

彼女は少し呆れ顔でオレを見ている。

「で、その吸血鬼がオレに何の用なんだよ」

オレも彼女に見習い、少しは落ち着きを取り戻す。

「別に大した用なんて無いわよ。唯、貴方の短刀を返しに来ただけ。あと……貴方に忠告しに来たのよ」

「忠告?」

その一言に、オレは難色を示した。

「そう。直に貴方の周りで戦いが始まるわ。避けて通れない大きな戦いがね」

「大きな戦いって何だよ?」

「さあ? 何かしら?」

惚けた口調で空嘯いている彼女にもはや何を聞いても無駄だろう。

「帰れよ、もう用なんて無いんだろ?」

聞く事を断念したオレは、そんな彼女に素っ気ない態度を示す。

「良ったら冷たいのね。まあいいわ、貴方の親友を殺したんだから嫌われて当然よね」

彼女はそう言うと、ほんの一瞬だけ、恰も自分を嘲笑したかの様な憫笑を漏らした。しかし、彼女は直ぐに明るい表情へと戻る。

「じゃあね、良」

そしてオレを見て別れを告げると、急に彼女はオレの目と鼻の先にまで近づいてきて、気が付けばレアリアはオレの唇を奪っていた。といった感じだった。

「……っ!」

「なによ、唯のお別れのキスじゃない。そんな目で見ないで」

面食らって唖然としているオレに、彼女は少し照れ臭い様な、擽ったい様な、そんな困った表情でこちらを見ている。

 

――果たしてオレは、あの時どんな目をしていたのだろうか?

 

その後間もなくして、レアリアは黒いドレスに羽の存在を消すと「お大事に」と言い残して病室を出ていった。

静かになった病室で独り孤独に浸りながら、オレは何となく窓から空を見上げる。

そこにあったのは、良く晴れた秋空だった。しかし、何とも晴々とした空なのにオレの心は釈然としない。

レアリア=ネイディルト、何か不透明な存在の彼女。親友を殺した犯人である彼女。謎のベールに包まれた美しく妖しい彼女。そして吸血鬼である彼女。果たして彼女は一体何者なのだろうか?

 

『表しか知らない人間が裏側を興味本位で覗き込むのは愚かな事だと思うか?』――先輩のその言葉が妙に引っ掛かった。

 

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