第二章 第七話『偽りの仮面の下の素顔』 「死因は凍死です」 高野光平は、自分の部下である筒美紀之の報告に自分の耳を疑った。 「何? 被害者の死因は凍死だと?」 「は、はい。死体解剖の結果はこれです」 筒美はギロリと睨む光平に、死体解剖の詳細の掲載された紙を渡す。そこには確かに死因が凍死である事が示されていた。 11月の朝は肌寒い。吐く息が白く、それはまるでいよいよ冬に近付いたかと感知させるかの様だ。 高野光平と筒美紀之の両刑事は、そんな寒い土曜の朝早くから前々日の木曜日に起きた連続猟奇殺人事件の現場検証に赴いていた。 この一連の事件は、全てにおいて確固たる証拠が無いと言っても正しい程、証拠が少なかった。よって鑑識達は、血眼になって昨日から証拠を探し続いている。 「なになに、被害者は徳中春子(トクナカハルコ)、23歳。大手通信会社に勤める若手社員か……」 光平は一通り眺めてその用紙を筒美に押し返すと、突然近くに止めていた車に向かって歩き出した。 「あ、先輩。何処行くんすか?」 「現場検証は素人の俺達の仕事じゃねぇ。現場を荒らさない内に署に戻って、今までの事件を整理するんだよ」 鑑識達が忙しく動き回る中、二人は車に乗り込む。 「おい、運転頼む」 筒美は顎で指図する光平に渋々運転席に座ると、キーを回して車を発進させた。 「しかし、何で被害者は凍死したんでしょうね?」 筒美は運転しながら、チラリと光平の横顔を伺う。そこにはいつになく難しい顔をした光平の顔が見えた。 「知らねぇよ。俺が聞きてぇくらいだ。まったく、この事件は謎が多すぎる。こりゃ下手すりゃ、迷宮入りかもしれんな」 筒美が泣き言を吐く光平の姿を見るのは今回が初めてではないのだが、こんなに弱気に成るのは珍しい。 まして光平はベテラン刑事として、今まで長い間いろいろと頑張ってきたのだ。さぞ悔しかろうと、気の毒そうに筒美は心の中で光平の心中を察していた。 「ん? おい紀之、車を止めろ」 車を走らせて約15分ほど経過し、署にも近付いてきた頃の事である。急に光平は筒美に停車するよう要請した。 「どうかしましたか? 先輩」 道路の脇に車を急遽停車させると、筒美は光平に尋ねた。筒美の視線の先にいる光平は、しきりに車道の向こう側を眺めている。 「ははーん、女絡みの喧嘩だな。だがあれじゃ、ちとばかり一方的過ぎるな。しかも大の大人が、若造相手に暴力を奮うのは、ちょっくらやり過ぎじゃねぇか?」 筒美はようやく光平の言っている事を理解した。 見れば路地裏の片隅で、30代後半の黒っぽいコートを着た男が17歳そこそこの若者に、殴る蹴るの暴行を加えている。その傍らでは、少年と同じくらいの歳の少女が怯えながら立っていた。 「お前は先に署に戻って、事件に関する書類でも整理していろ」 光平はその様子を眺めている筒美に伝えると、不意に車から降りる。 「あっ。ちょっと、先輩!」 「なーに、それも刑事の仕事の内さ」 光平は最後に優しく笑みを漏らし、そう言い残すとその喧嘩を止めに行ってしまった。 筒美は突然の光平の行動に戸惑いを感じつつも、仕方なしに車を発進させる。 ――取り立て不安になるような事ではなかったのだが、何故か普段より光平の背中が哀しく見えた。 「明君。私の傘、使って」 彼女――氷護雪奈(ヒゴセツナ)は、俺に向かって唐突に持っていた傘を差し出してきた。 ――それは高校からの帰り道の事。その日、俺は駅の入り口で雨の止むのをひたすら待ち続けていた。 未だ残暑が残る9月の中旬。秋を感じさせるのは、しとしとと雨が降り続けるこんな長雨くらいだ。 「ひ、氷護さん? ど、どうしたんだよ、急に」 突然、誰かに背中から肩を叩かれて、俺は振り向いた。 「何だか今日は雨に打たれたい気分なの……」 振り向いた俺の視線の先に待っていたのは、とても哀しげで憂鬱な表情をした彼女だった。 ――と、俺と彼女の初めての接触は、こんな感じだった。 俺の名は鳴瀬明(ナルセアキラ)。私立名城高校の二年生だ。 氷護とは通学時の駅――東霞ヶ崎駅で、乗り降りするだけの単なる顔見知りに過ぎないクラスメイトだった。クラス内でも全く話した事は無く、本当に赤の他人と言った様な感じであった――そう、少なからずその時までは。 氷護は、肩まで伸びた艶のある美しい髪に、細身でいかにも女性らしい体のライン。顔も色白で可愛い方だと(俺は)思う。 だが、教室の中では必要最低限の時にしか他のクラスメイトと話そうとはしなく、彼女の友達を誰ひとり見掛けた事はない。そんな感じのいつも孤独な少女だった。 なんだか彼女の周りには、常に見えない氷の壁が張られているかの様で近づき難く、どこか冷徹なイメージがある。だから誰も近寄ろうとはしなかったし、なにより、彼女も自ら友達を作ろうとはしなかった。 そんな彼女を皆は気にも止めていなかったが、俺は少し違っていた。 その時はまだ好きとか嫌いとか、そう言う特別な感情を持ってはいなかった。しかし、彼女にはそこらの有り触れた有象無象とは違い、何か他人には無い様な力が備わっている。 ――そんな気がしてならなかったのだ。 翌日、昨日とは打って変わって朝から清々しい陽気に包まれた。 「昨日はありがとう。おかげで助かったよ」 俺は朝のホームで、いつも通り見掛ける彼女に近づいて傘を差し出した。 「良いの。こんな私に使われるより、明君みたいな人に使われた方が傘も喜ぶと思うわ」 「え?」 彼女のその不思議な言葉に惑わされ、俺は何と返事を返せば良いのか戸惑ってしまった。 その時、不意に傘の柄を握っていた俺の右手に彼女の手が重なる。 「あ、ゴメン」 それに気付いた俺は直ぐに傘の柄から手を離した。 「明君の手って、暖かいのね」 微かに微笑んだ彼女の笑顔が今でも忘れられない。その笑顔に俺は、一刹那の内に心までも彼女の虜に成ってしまったのだ。 ――それは俗に言う『ヒトメボレ』。 氷護はそんな呆然と立ち尽くしたままの俺を置いて、そのまま電車に乗り込んだ。 「あっ。おい、ちょっと待てよ」 慌てて俺も彼女を追って電車に駆け込む。 今回の出来事を機に、その日から俺は毎日の朝の通電を彼女と共に通学するようになった。 ――こうして俺達の幼い恋は始まった。 始めは友達のような関係だったのだが、恋人になるまでそう時間は掛からなかった。 逆を言えば、それは気が付かない内に恋人まで縺れ込んでいた。と、言った方が正しいのかもしれない……。 『昨日はありがとう。おかげで助かったよ』 他人に心から感謝されたのは、これが生まれて初めてだった。別に感謝の言葉が欲しくてあの雨の日、私は明君に傘を差し出した訳ではない。 唯単に、憂鬱な気分で『雨に打たれたい』と思っただけ……。 ――ふと私は、彼のあの言葉を思い出していた。しかし、彼のその優しい言葉に私が恋に陥るのは、もはや時間の問題だった。 私が彼に恋する権利を持たない事など、始めから分かっていた。今、自分が罪を犯そうとしている事も十分理解している。『奴等』に感づかれれば殺されるのも承知の上の事だ。 ――彼に早く会いたくて、朝が来るのを待ち遠しくて、狂おしくて仕方なくて……。 だが、意に反して日を増す毎に私の心はいつしか彼への心情と欲望で満たされてゆく。 恋してはイケナイ。自分でも深くそう思う。だけどほんの少し、たった一週間だって良い。殺されたって構わない。それでも『ヒト』として今の凍てついた仮面を剥がし、私は自分に詐りなく純粋に恋をしてみたかった。 そんな時、心も体も冷え切って冷たく成った私を暖かく温めてくれたのが彼だった。 そして私と彼は、その日から一緒に通学するようになった。 初恋、初めての恋人。何もかもが新鮮で、全てが初めての出来事に戸惑う事ばかり。彼はそんな私にいろいろ気遣ってくれた。 それからだと思う。毎日の生活がこれ程充実していたと感じられたのは。 果たしてこんな気持ちになれた事が今まであっただろうか? いや、きっとなかった筈。 まるで氷室を飛び出したら、そこには春の陽気がまっていた様な、今までに味わった事の無い感覚と気持ち。 私の仮面の下の素顔は、こんなにも生き生きとした素晴らしい素顔だった。 それは氷護と一緒に通学する様になってから、二週間後くらい経った頃の事だっただろうか。弓道部と帰宅部と言う間柄な為、滅多に一緒になる事はなかった訳だが、その日は珍しく氷護と帰る時間がちょうど重なったので一緒に下校していた。 「なぁ、氷護。今度の日曜なんだけど……、暇?」 「え? あ、うん」 氷護は俺の言いたい事を咄嗟に悟ったらしい。彼女は笑顔で頷いた。 「どこかに行こうか? この前の傘のお詫びに」 「いいよ。行こ!」 彼女のOKサインに、俺は心の中でガッツポーズをとりながら密かに喜んでいた。 単なるデートの約束。デートの口実を探していた俺にとって、傘の件は絶好の材料だった。 「ドコ行くの?」 「うーん……。氷護はどこ行きたい?」 行く宛など全く考えていなかった俺は、さしずめデートに適度な所が思い付かなかったので苦笑しながら回答を氷護に求めた。 「私、明が居る場所ならどこだって良い」 「え?」 俺は思わず胸が高まった。 氷護は微笑みを浮かべ、俺の方を伺っている。 「ど、どうしようか……」 ちょっぴり、はにかみながら返事に迷う。 彼女の微笑に眩んでしまった俺には、もはやデート先なんてどうだって良くなっていた。 (俺も氷護と一緒に居られるのなら、もう何も望みはしない) それが今の俺の心内だった。 ――結局、その日の帰り道の中では行き先が決まらず、後はメールでやり取りする事に決まった。 デートの日まで後三日。浮かれていた俺は、何だか子供の様にはしゃぎ回りたい衝動に駆られていた。 どうやら、短いようで長く感じられる三日間に成りそうだ。 トゥルルル、トゥルルル……。 深夜。暗闇の中、部屋中に電話のけたたましい呼び出し音が鳴る。 私はベッドから起き上がり、部屋の電気を付けると受話器を取った。 「もしもし」 『私だ、フェハードだ。どうだ、亡霊(ファントム)。例の実験は?』 「順調です」 『抜かりは無いだろうな?』 「はい。ございません」 『ならば私は何も言うまい。しかし、未だに生身の人間には試していないのだろう?』 「恐れながら」 『良い。いずれ試す時が来るであろう。それよりも今は、確実に『計画』を成功させなければ成らぬ。我等『世界秩序機関』の為にも』 「心得ております。しかし、奴等『神聖協和連盟』にこの事が発覚していないか、それが気掛かりです」 『亡霊(ファントム)、それはお前が気にする事ではない。奴等はいずれ我が弟子『ブロッソル』が神王の犬共々、抹殺する手筈だ。お前は実験の成功だけを気にしていれば良い』 「はい。とんだご無礼を」 『解れば良い。ところで、お前に最近変わった事があると聞いたのだが……』 「い、いえ。決してその様な事は……」 『ふーむ、まさか余計な心情を持っていたりはしないだろうな?』 「滅相もございません」 『分かった。これからの事は追って指示する。引き続き実験を続けよ』 「承知しました」 そこで電話は切れた。 私はがたがた振るえながら壁に凭掛かる。高ぶる心音を抑えようと深呼吸をしたが、それでもまだ脈拍は早かった。 私は恋する事が出来るなら死を恐れないと誓った筈なのに、いざ死が近付くと恐怖が襲う。 (助けて……) そう心の中で叫んだ。それが今の偽りの無い正直な気持ちだった。 今や私は組織の掟を破り、更に今度は、己の体を締め付けている鎖を断ち切ろうとしている――そんな私の身には、もはや破滅の道しか残されていないのかもしれない……。 深夜、美しい町並みのネオンを一望出来る廃ビルの屋上には、闇に溶け込む二人の男の姿があった。 黒いロングコートを着こなした男と、これまた漆黒のローブに身を包み、深くフードを冠った真紅の双眸の男。この二人以外には、辺りに人影は見当たらない。 「おのれ亡霊(ファントム)。あれ程心情を持つなと言ったのに、いらぬ心情など持ちよって」 片方の黒いロングコートの男は、携帯電話を折り畳んでポケットにしまうと難色な強面で言葉を漏らした。 「御希望ト有ラバ、今直グニデモ殺シマスガ?」 それに恭啓する様に、傍らのもう一人のフードを冠った男が尋ねる。その低く曇った邪まな声が、辺りの静寂な闇夜へと不気味に響く。 「いや。ブロッソルよ、奴にはまだ使い道がある。今暫く待て。そして亡霊(ファントム)から『オルケア』を受け取り次第、始末するのだ。それと奴の交友関係を探れ。もし何かあったら、私に連絡しろ」 「仰セノママニ」 ブロッソルと呼ばれた男はロングコートの男に軽く一揖すると、そのまま踵を返し何所かへと行方を晦ました。 |
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