第二章 第九話『それは宵闇の訪れと共に』 男にしてはほんの少し長めの黒髪。背は隣の女性より高く、多少大人びて見える少年――鳴瀬明が氷護雪奈と並んで親しげに歩いている所を、物陰から密に凝視する者がいた。 その邪悪に充溢した紅の眼は常に二人に向けられている。 黒いローブを身に包んだ男らしき者は、唐突に懐から携帯電話を取り出すと電話をかけ始めた。 『私だ。フェハードだ。どうかしたか? ブロッソルよ』 電話の相手はそう応えた。 ジロリとブロッソルはその真紅の双眸で鳴瀬明を睨みながら、低く曇った奸悪に満ちた声で答える。 「師匠(マスター)、亡霊(ファントム)ノ傍ラニ、親シソウナ男ガイマス」 『やはり、奴の心情を揺るがす人物がいたか……。仕方あるまい』 しかしブロッソルの報告にフェハードは、幾分か落胆した後に軽く溜め息を吐くに過ぎなかった。 『邪魔な存在は計画以前に消しておくべきだったな』 「ナラバ、奴ヘノ見セシメニ、即刻コノ場ニテ殺シマスカ?」 『いや、もう暫く奴の好きにさせておけ』 「ハイ、師匠(マスター)」 絶対なる存在――フェハードの前に電話を切ったのち、指示通りに二人の姿が駅の中へ消えるのを確認すると、ブロッソルもまた何処かへと姿を消した。 「どうぞ」 キッチンから現れたエプロン姿の氷護が手にしているのは、二人前のちょっと小さめのケーキだった。 「うわぁ。こ、これ氷護が作ったの?」 「ええ、そうよ」 皿とフォークが並べられているテーブルに、ケーキを置きながら自信満々に氷護が頷く。 ケーキと言ってもそこにあったのは、プロ並に綺麗な装飾を施されたデコレーションケーキだった。 ――今、俺は氷護のアパートにいる。小さな部屋とキッチンとバスルーム。築5年のなかなか新しいアパートに住んでいるようだ。 部屋には生活に必要最低限な家具と物資しかなく、清潔でシンプルな空間ではあったが、そこがまた彼女らしい感じを漂わせている。 「さあ、食べましょ。……あっ、ちょっと待って」 氷護は俺と向き合う様にして座るや否や、また立ち上がりキッチンへと向かう。 「どうしたんだよ?」 俺の催促に彼女がキッチンから持ってきたのは……、リボンの付いたナイフ? 「せっかくだから、入刀式しない?」 俺は戸惑い、心の中で密かに苦笑する。 「ほら明、早く!」 恥ずかしさに俺は顔を赤くしながら、急かす彼女に勧められるがまま、ナイフを手にする彼女の手の上へと俺は手の平を重ねた。 「じゃあ、氷護との初めてのデートを祈って」 俺はそう言って二人仲良くケーキへ刃を当てた。 「私、小さい頃ケーキ屋さんに成りたかったの……。だから子供の時からケーキ作りを頑張ってた」 不意に、フォークを持っていた彼女の手が動きを止める。 「?」 連れて俺も手を休め、目の前のケーキから氷護へと視線を移す。すると彼女は再び話しの続きを語り始めた。 「でもね、親がとても厳しくて。気が付けば、両親の敷いたレールの上に無理矢理乗せられて……。まるで、将来そこに辿り着く様に私の人生は決まったみたいに。 両親は、私が成長過程であれこれ周りからの影響受けないかと恐れて、教育機関の施設に入れたの。そこではいつも孤独で独りぼっち。ようやく親から抜け出し、他人と触れ合える様に成った時はこの名城高校に入学した時。でもその時には、私は他人との接し方すら忘れてた……。 そして友達も出来ずにここでもまた独りぼっち……。でもやっと私以外の人間に会えた。明に会えたの。本当にうれしかった」 氷護は懸命にその気持ちを言葉に表そうとしているのが解った。 この時俺は、氷護の持つ他人には無い力、氷護から補おうとしていた何か、そして何故氷護に自分が引かれていったのかが分かった気がした。 「多分、俺は凄く弱い人間なんだと思う」 「どうして?」 彼女は首を傾げながら不思議そうに尋ねてきた。 「俺の両親は共働きでね、父親はサラリーマン。母親は看護婦。父さんが帰ってくるのは夜遅く、母さんは夜居ない事が殆ど。だから、家にはいつも俺しかいないのがいつの間にか当たり前になっていた。 テーブルの上には小遣いと置き手紙だけ置いて、愛情をこれっぽっちも置いてはくれない。時間に追われて母さんの手料理なんて滅多に口には出来なかった。 『ただいま』って言っても返ってこない返事。独りで食べる夕食。いつまでも俺を取り巻く孤独感……。心の奥底では何度も何度も『助けて!』って叫んだ。叫び続けた。でもいくら叫んでも両親は気付いてはくれなかった。 だから心の中では、いつも一緒に居てくれる人を探してた。形だけじゃなくて、気持ちの面でも親身になってくれる氷護みたいな人を」 俺は今まで胸に詰まっていた弱音、本音を全て彼女の前で吐露した。いや、決して『した』のではない。彼女だからこそ『出来た』のだ。 「きっと、甘えん坊なんだよなぁ。俺は」 アハハと涙を堪える為に必死に作り笑いを浮かべながら、俺は妙に明るく振る舞うと、またケーキを食べ始めた。 「ごめん、氷護。せっかく遊びに来たのに、なんか今日は愚痴の零しあいみたいになって……」 アパートの玄関先に立った明は、帰り際に私に向かって苦笑を漏らしていた。 「いいの、気にしないで」 「あっ、それとケーキ美味しかったよ」 「うん」 「今度は俺のマンションに来いよ、どうせ両親なんていつもいないから。それじゃ」 彼はドアを開けて私に背を向ける。 「待って……」 私は明に向かって未練がましく声を掛けてしまった。 「どうし……」 振り向く彼に、私は抱きつき刹那に唇を奪う。 「ひ、氷護!?」 明は突然の事に目を白黒させ面食らいながら呟いた。 「ご、ごめんなさい。私つい……」 自分でもどうしてこんな暴挙に出たのか分からなかった。 唯、急に恥ずかしさが込み上げてきたのは間違いない。目と鼻の先にいる明の顔を見つめながら、自分でも顔が紅潮しているのを感じられる。 「じゃ、じゃあまた……」 少しの沈黙の後、明はどうしたら良いのか戸惑っていたが、また私に背を向けて扉を開けると、足早に出ていってしまった。 欲求不満? いいえ、違う――明の背中を見送りながら、私の本心はもっと別の物を欲していた。 そう、それは――血。 バタン――それはドアが閉まるのと同時に、顕然と私に襲い掛かってきた。 この時既に、私は限界の域を越えていると言っても過言ではない。明の血を欲していた。 沸き起こる吸血衝動と堪え難い欲望。失いかけた理性の前に抑制の効かない自分……。 「はぁはぁ」 ドクンッ、ドクンッと血流が激しく脈打つ。 熱い吐息を漏らしながら、私はなんとか体を持ち上げドアに寄り掛かる。しかし、ぐったりと虚脱したその体に、力強さは微塵も感じられない。 (血が吸いたい……明の血が吸いたい) 血を吸いさえすれば楽になれる。私は唯々、その苦しさ、切なさから逃れたいだけだった。 ――そんな邪まな思想が頭に浮かぶ程、私は血に飢え、身も心も血を欲していた。 「だっ、駄目。そんな事考えちゃ」 欲望が脳内を取り巻く中、私は両手で頭を押さえ付け、激しく左右に振り払いながら叫ぶ。 だが……、 (吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ、吸イタイ……) 波状に拡散する衝動に、私の脳は『吸いたい』と言う言葉しか考えられなく成っている。 欲望と理性の衝突、衝動と抑制の闘争。その前者と後者の善悪対立の真中に放置された私の思考は、もはや乱された秩序と混沌とした澱みの中に埋もれていた。 「は、早く『オルケア』を完成させなければ……」 ――私の様な混血種の吸血鬼とって吸血衝動は付き物であり、また生きてゆく中で無くてはならない物でもある。 しかし、吸血衝動とは何かと厄介なもので、吸われた人間のその大半は、理性を失いその吸った者の奴隷となることが多い。 それは『混血種』とは違い、『下等種』と呼ばれていて処理に困る。言うなれば、役立たずの烏合の衆の様な存在なのだ。 だからこそ『オルケア』が必要だった。 混血種でも『オルケア』を体内に注入さえすれば、血液中の五割を占める人間の血を吸血鬼本来の血に変えてくれる。 ――つまりは『純血種』になれるという事。 純血種には吸血衝動なんて言うものはない。だから混血種にとって吸血衝動からの解放は、古からの願いだった。 そもそも『オルケア』とは心臓を媒体として増殖するウイルスで、『世界秩序機関』が人間から大勢の純血種を作り出す為に開発してきた細菌兵器なのだが、ウイルスを大量生産するには程遠く、私は実験としてフェハードの監視の下で『オルケア』の媒介、増殖の実験を行っていた。 私はなんとか立ち上がり、キッチンにある冷蔵庫の中から輸血用の血が入ったパックを取り出すと、舒にビニールのパックに噛み付き食いちぎった。 そして吸血牙から直に血液を吸い寄せる。見るみる内にパックは萎み、遂には空となった。 本来ならば、私は吸血衝動すらフェハードに禁じられていたのだが、吸血衝動を見越して知り合いの混血種の吸血鬼から輸血用の血を貰っていた。 ――血を吸って朱くなった口元を拭いながら、ようやく吸血衝動から逃れられた私は糸の途切れた傀儡人形の如く、事切れた様に呆然とその場に佇んでいた。 「明……」 眼に泪が溢れ視界が歪む。 私は恋や愛等と言うものより、唯単に血を貢いでくれる人間を探していただけなのかもしれない……。 ――もし、明がその事を知ったらどう思うだろうか? そう考えただけで自分が至極の愚者に思え、酸鼻な思いに駆られるのだった……。 それから、明との付き合いは何事も無く無事に一ヶ月程続いた。 週末にはあちこちデートしたり、明のマンションに遊びに行ったり……。毎日が楽しかった。 そんな秋の終わりが近づいた10月も下旬のある日、フェハードの命令の下、私は『オルケア』ウイルスの新たなる媒介にする為の新鮮な心臓を調達しに、深夜になるのを見計らって街へと繰り出した。 深夜、私は繁華街――霞ヶ崎駅前へと向かった。 そこは未だに人間供で溢れている。酔ったサラリーマン、家路につくOL、路地裏で屯っている不良達……。中には高校生の姿も。 心臓を狩る人間は、必ずしも決められた人でなければならないと言う訳ではないが、なるべく若くて健康な身体の方が良い。 それに、出来る限り女性を狙った方が何かと無難である。よって私はいつも若い女性を狙っていた。 (あの女性あたりが無難かな?) ちょうど私の前を歩いていた20代の女性が、人気の無い路地裏へと向かった。私もその女性の後を着ける。気付かれぬよう、一定の距離を置きながら少しずつ距離を短くしてゆく。 もう女性の背中は眼と鼻の先だった。 そして私はその女性の肩を掴む為、腕を伸ばした。と、その時……、 「遂に見付けたぞ。アイス・ファントム」 そのOLの肩を掴む前に私の肩を誰かが掴んだ。 私は驚き、反射的に振り向く。そこには、16、7歳くらいの美少年が立っていた。 蒼紫色のマントとローブ。一瞬女と間違いそうになるくらいの、その長く美しい藍色の髪と色白な顔立ち。しかし、間違いなく彼は声が男だった。 「き、貴様は!」 そう、姿形からして恐らく『幻影の死神』と謳われたあのロストであろう。 私は刹那に後方へと跳び退く。すると奴はフッと不適な微笑みを残し、呟いた。 「どうした? 世界に災いを齎す者よ」 私はスッと横目で獲物を一瞥したが、そのOLはもはや路地裏の角を曲がり姿が見えなくなってしまった。 「ちっ」 舌打ちしながら私は手を広げる。もはやロストと一戦交えるしかなさそうだ。 「牙を剥くなら相手になろう」 戦意を見せる私に、奴は冴え冴えとした顔付きで奴は身構える。 「その余裕、後で後悔するわよ?」 「どうかな?」 フッと微かな笑みを零すロストに、私は慎重に間合いを計りながら対峙した。 ――こうして私とロストの路地裏の戦いは深夜、静かに幕を開けた。 |
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