第一章 第六話『そして全ては始まった』 「ジュース、持ってきました」 不意に扉が開くと、加原が扉の中から現れたのだった。その両手が持つお盆の上にはオレンジジュースの入ったコップが置かれている。 「ありがとう、加原ちゃん。わざわざ気を使ってくれて。どうぞ座って」 部長はドアまで来るとお盆を受け取り、加原をソファへと誘う。 「いえいえ。あと、久遠の手当ての方はしておきました。命に別状は無いと思いますが、ちょっと貧血気味でまだ意識が無いみたいです」 加原は、少し遠慮深そうに部長の隣に腰を降ろす。 「うん、分かったわ。ありがとう、加原ちゃん」 部長はジュースの入ったコップを加原と自分の前に置いた。 「はい、春日君。どうぞ」 そして今度はコトリとオレの前に置く。 「部長、良は首を縦に振りましたか?」 「いいえ、まだよ」 部長は少し残念そうに加原へ告げる。 「あんた、まだ『うん』って言ってなかったの?」 呆れた様な声をあげながら、こちらを見る加原にオレはちょっとムッとした。 「生憎、何が何だか分かんない様な物をさっさとハンコ押して買う程、オレは馬鹿じゃないんでね」 「なっ」 オレが牽制を仕掛けると、加原はどうやら釈に障ったらしい。 瞬時に拳を握り立ち上がったのだが、隣のから伸びる部長の手が彼女の声と体を封鎖した。 そして今度は、加原に変わって部長が話し掛けてくる。 「確かに春日君の言う通りね。でも、現に事態はもうあそこまで来ているの。お願い、私達を助けて」 部長の切実な眼にオレは息を飲む。 暫しの間、沈黙が流れた。部長は何も言わず黙ってはいたものの、瞳は確かにオレへ何かを語りかけてくる。 その真っすぐな眼にオレは遂に屈した。 「分かりました。部長の願いなら断れませんよ」 先程の様な危険に襲われる事もあるだろう。だが、オレは危険も承知の上で彼女達に協力する事にした。そして、何より本当の自分を知りたかった。 オレの口から漏れたその言葉に、二人は顔を向き合わせ喜んだ。 「あの、思ったんですけど、『天使』とその『神聖協和連盟』とやらは同じなんですか?」 「いいえ。『天使』と『神聖協和連盟』は違う組織よ。『世界秩序機関』は多くの吸血鬼達と吊るんでいるの。天使側から見ればその吸血鬼抹殺だけの為みたいで、天使はそのために私達『神聖協和連盟』に協力している契約社員みたいなものよ。ちなみに私は『神聖協和連盟』の情報部員。そして彼女は『天使』よ」 最後に部長の漏らした言葉にオレは驚いた。 「か、加原が天使?」 「うん」 加原はコクリと静かに頷く。次々と襲い掛かる真実に暫くオレは唖然となった。 「そう言えば『協力しろ』って言ってたけど、オレは具体的に何をすればいいんだ?」 「奴等『世界秩序機関』の『フェハード』と言う奴を殺して欲しいの」 加原は一枚の写真を俺の目の前に提示した。そこに写っているのは、30代後半の黒いロングコートを着た、体格の良い男だった。他に特徴を述べるとするならば、目付きがやけに恐ろしい。 「こ、殺しって言っても、オレには無理だよ。第一、さっきの奴にも勝てないで久遠が殺されそうになったんだぜ?」 オレは彼女の言葉にドキリと心臓が高鳴る。大体、オレは誰かを殺す勇気なんてない。不可能だ。 すると今度は部長が口を開いた。 「あら? そんな事は無いわ。勝てないのはまだ貴方が目覚めていないだけよ。それに、春日君は元々『世界秩序機関』で暗殺者として教育を受けてきたんだもの。目覚めていればオベロンなんて瞬殺出来た筈。それに、貴方にも吸血鬼としての特別な能力が備わっているから大丈夫よ」 「特別な能力? 吸血とかですか?」 首を捻るオレに部長は付け加える形で話してきた。 「吸血能力は悪迄で純血、混血の両方の吸血鬼が持っているわ。それとは別の力。さしずめ貴方は瞬速(ヘイスト)と言ったところね」 「《ヘイスト》……ですか」 「良はその昔、10人の天使の刺客を相手に、一度で9人も手に掛けたのよ?」 「え?」 加原は突然何かを思い出したかのように話し出した。 「その頃の良は『世界秩序機関』の吸血鬼達からも、敵である天使からも『瞬速の悪魔』と恐れられていたの。そして何よりオリハルコンのダガーである『神殺しの短刀』を持っていた事により、遂には神界の神王をも恐れる吸血鬼となった。分かる? この意味が」 『瞬速の悪魔』……か。 彼女の話しによるとオレは相当な奴だったらしい。そして名前の由来はどうもそこから来ているようだ。 加原は話しを続ける。 「だから神王様が刺客を10人も送り込んだのよ。でも私達が、助けに向かった時には既に皆殺されてた。微かに生き残ってのはたった一人だけ……あの久遠だけだったの。そう、良が私に屋上で話したあの夢の事よ」 「でも何で今頃になって、全てがまた動き始めたんだ?」 そうだ、それが気になる。オレが記憶を無くしている内に殺してしまえば、それで全ては片付いたのではなかろうか? オレは二人に尋ねた。 「それはね、春日君。貴方の血に天使である久遠ちゃんの血が混ざって、春日君が限りなく人間に近い状態に成っていたからよ。だけど少しずつ肉体が吸血鬼に戻りつつあるわ。だから私達も、ようやく貴方があの『瞬速の悪魔』だったと気付いたの。奴等もまた同じよ」 部長の言葉に、頭の中でふとレアリアの言葉が過ぎる。 彼女の言っていた『例の少年』や『彼の者』とは、きっと目覚めた殺人鬼のオレを指していたのだろう。 「ねぇ、もう時間も遅いし今日はこれぐらいにしましょ。春日君も何かと疲れたでしょ?最後にはこんな話しも聞かされて」 如月部長の言葉にオレは、ハッとなって部屋にあった時計を確認する。見ればもう時刻は9時を指していた。 「うわ、もうこんな時間。早く帰らないと」 オレは立ち上がると部長に挨拶をして、急いでマンションを出た。 如月部長宅からの帰り道。すっかり帰りが遅くなり、辺りは既に漆黒の闇に包まれていた。 きっと古宮さんも成海も心配しているだろう。早く帰らないと。 オレは自宅の方へ今から帰る事を伝える為、携帯電話を開いてボタンを押そうとした。 ふと、成海の顔が頭に浮かぶ。その時、今までの話しと自分の記憶の矛盾が新たな疑問を生じさせた。 (――何故オレには昔の記憶があるんだ?) そうなのだ。オレには幼い時の記憶もあるし、成海や父さんの昔の姿も思い出として記憶の中に入っている。 では吸血鬼だった少年時代の記憶は? ――残念ながら思い更けても見付からない。だが、あの時の夢――久遠の血を吸った時の夢を見たのは紛れも無い事実。 一体どうなっているんだ? 重なる記憶。それが意味する事は、どちらかは偽りの記憶に過ぎないと言う事実。決して真実は二つもありはしない。 ボタンを押そうとしていた指が突如として震え出す。真実を知らない方が幸せな時もある、何故かそう思えるのだ。 知ってしまえば、今の生活、家族との関係、果ては今までの自分の人生すら崩壊しかねない気がする。そう思うと突然恐くなった。 オレが自宅の方に電話を掛けようとして諦めかけていると、後方か近付いて来る加原の声が聞こえた。 「ちょっと。待ってよ、良!」 後ろから走ってくる加原の跫音と声が、暗い夜道に鳴り響く。オレは立ち止まって、加原が来るのを待った。 今宵は空に月が出ていない。微かに光る数多の星々も、今日は妙に明かりが乏しかった。 加原の話しによると久遠は、本人の気が付きしだい部長が連れていくことになったらしい。 「ねぇ、良?」 「ん?」 不意に隣に居た加原がオレに訪ねてきた。 「今まで私が天使だった事、黙っててゴメン。ホントは私、貴方の監視役だったの」 「監視……役?」 「でも、私が良の監視役なんて分かったら、きっと嫌われるだろうと思って今まで恐くて言えなかった」 突然の告白に、鼓動の波紋が心臓に広がる。 内心オレは、凄く驚いていた。加原が天使だった事も相当驚いたが、今の発言はそれを上回っていた。 彼女の言葉から分かる事は、目覚めていないオレですら監視される程、天使達に恐れられていると言う事。 オレはそんな事を考えながら、話しを続ける加原の声を聞いていた。彼女は何か様子を伺う仕草で、不安そうにオレの顔を覗き込む。その姿がいつもより愛しく見えた。 「もういいよ。夏美が何であろうと夏美には変わりないんだから」 それは諦め念と言うべきか、もはや何を言われても驚くしかないと思う気持ちだ。本当に今日一日は驚きの連続だった。 オレは加原に微笑みを投げ掛けながらそう言うと、冷たい夜空を仰ぐ。白い吐息が、暗い空へ打ち上げられては儚く消えてゆく。 それはまるで、あのロストと名乗る少年が言った様に誕生と消滅が繰り返されている様にも見えた。 「ねぇ、また親友でいてくれる?」 加原は急に立ち止まると、オレの後ろから声を掛けてきた。 「当たり前だろ?」 オレがそう言って振り向いた瞬間、加原が突如抱き着いてきた。 「良、ありがとう」 加原はそのままオレの胸に顔を伏せ、表情を隠している。どうやら彼女は泣いている様だ。 「あれ? おかしいな。何でだろ? 何で涙なんか出るんだろ? あんなに『もう泣かない』って心に誓ってたのに……」 加原が俺の胸の中で囁いた。その様子を見て、オレはホッと肩の力を抜いてゆく。 「泣きたい時は好きなだけ泣けば良いさ。泣き止むまでオレが側に居てやるよ」 そんな加原にオレは優しく言葉を添える。どうやらその一言が最後の引き金を引いたらしい。加原はオレの顔を見上げるや否や、彼女の眼から止めども無く涙が溢れ出した。 「お前の人権は我々『世界秩序機関』により剥奪されている。吸血衝動に始まり、破壊衝動、喜怒哀楽、殺意、芳情、恋愛、性欲、慈悲、憐憫、諒恕、恐れ、嫉み、憎しみ、その他一切の心情と感情及び欲望を持つ事を禁ずる。もし一つでも違犯があれば即刻、貴様の存在を抹消する。分かったか亡霊(ファントム)?」 「はい、フェハード様」 ――事の全ての始まりは一年前の春、あの日から始まった。 その日、私はとある実験の為『世界秩序機関』によってこの地に配属された。 私のアパートの玄関先で、黒色のロングコートに身を包んだその男は、私の返事に安心したのかドアを開けると、悠然と外へ出て行ってしまった。 ――バタンッ。 ドアの扉が閉まったその時から私の心もまた閉ざされた。それは堅く、暗く、狭く、冷たく……。それはまるで氷室の様に。 |
|